瓦版 第六号 町の人へ

飛脚から届け人へ

届け人は、どこから来た?

江戸には、手紙やお金を走って運ぶ飛脚と、組で町を火事から守る町火消しがいました。どちらも決まりと仲間で動く仕事です。届け人はその流れの先で、料理や荷物を戸口まで運んでいます。

飛脚:走って届ける人

江戸時代、手紙やお金、荷物を運んだのが飛脚です。幕府の公用の書状は「継飛脚(つぎびきゃく)」が、宿場の問屋場から次の宿場へとリレーで運びました。町の人の手紙は、民間の飛脚問屋が運びました。

呼び名は町ごとに違い、江戸では「定飛脚」、大坂では「三度飛脚」(月に3度往復したことから)、京都では「順番飛脚」と呼ばれました。1782年(天明2年)には、江戸の定飛脚問屋の仲間(9軒)が幕府の道中奉行に公認されています。

江戸から大坂まで、いちばん速い便で約3日、いちばん安い料金だと1か月近くかかりました。届ける期限(日限)を決めた便があり、期限が短いほど料金は高くなりました。

町火消し:組で町を守る人

1718年(享保3年)、町奉行の大岡忠相が、町人による火消しの組「町火消し」をつくりました。のちに「いろは」の名の組に分けられます(組の数と編成の年は、資料によって説明が少し違います)。

組の目印が纏(まとい)です。火事場の近くの屋根の上で纏を振り、自分の組がここで火を消していると知らせました。火消しは刺子の半纏や股引を身につけました。

ギルド紋「丸に纏車」纏の頭(だし)を自転車の車輪に、その下に馬簾と柄。組の目印だった纏を、届け人の組の目印にしました。既存の家紋は使っていません。

飛脚から郵便、そして届け人へ

  1. 1657年明暦3年

    明暦の大火。このあと江戸の町に、食べ物を売り歩く棒手振(ぼてふり)や屋台が増え、町の人の食を支えた

  2. 1718年享保3年

    大岡忠相が町火消しをつくる

  3. 1782年天明2年

    江戸の定飛脚問屋の仲間が、道中奉行に公認される

  4. 1871年明治4年

    前島密の発議で、東京・京都・大阪のあいだで郵便が始まる。布告では大阪まで39時間

  5. 1872年明治5年

    定飛脚問屋が「陸運元会社」になる(1875年に内国通運会社。今の日本通運の前身)

  6. 2024年度令和6年度

    宅配便は1年で約50億個

  7. いま

    届け人が、料理や荷物を町の戸口まで運ぶ

受け継いでいるもの

飛脚手紙・お金・荷物を、決めた期限(日限)までに届けた
町火消し組の決まりで動き、纏で居場所を知らせて、町を火事から守った
届け人掟を守って、雨でも路地でも、料理や荷物を時間どおりに戸口へ届ける

飛脚は決まった期限で届け、町火消しは組の決まりで動きました。届け人がかっこいいのも、速さではなく、決まりを守って、雨でも路地でも時間どおりに届ける腕前にあります。

お届けギルドは、その腕前を「ギルドの掟」と「冒険の書(交通ルール手引き)」で磨き、町の人に知ってもらう場所です。

ここに書いていないこと:江戸の「出前」の始まり、町飛脚が始まった年、町火消しの担い手が誰だったかは、公的な資料で確かめられなかったので書いていません。

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出典

史実は、郵政博物館・東京消防庁・国土交通省・総務省・東京都立図書館などのページの記載を、Web検索の結果で確かめたものです(作業環境から原文を開けなかったため)。公開する前に原文で確かめ直します。

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